氷の上のさかな

氷の上にディスプレイされたさかなの様にセカンドライフをキラキラとさせる為に今を頑張ろうといったシュールなお話。

「ふれあい」を求めたが為に糖分が欠乏しちゃって危機一髪の巻

「ふれあい」と聞けば中村雅俊を思い出してしまうのは五十路以上に限られるだろうが、村野武範と聞いて「レッツビギン!とにかく何かを始めよう!」を思い出すのは更に5つ以上、年を重ねた者だけだろう…か。だから、そんなことはどーでもイーデスハンソンさん。

 

というわけで、昨日は「第60回 岐阜地区 ふれあい教育展」に行って来た。

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第60回 ふれあい教育展


岐阜地区6市3町の特別支援学級並び、特別支援高に通う子ども達の作品や演奏などの発表会が毎年行われる。回を重ねて60ともなれば、「ひとつ、ふたつ、みっつ、たくさん」とみっつ以上を数えられない自分にとっては天文学的数字だ。素晴らしいことである。

 

ところで、今更だが「ふれあい」という言葉の意味をどれほどの人が存じ上げているだろうか?当然、自分にしても存じ上げていなかったのでGoogle先生に訊いてみたらやっぱりいちばん上に中村雅俊の「ふれあい」が出てきた。もう、Googleの馬鹿!

 

で、その下にスクロールすると、Wikipedia先生がちゃんと答えを用意してくれていた。

「ふれあいとは、主に地域社会内において、年代層や職業などが異なる人間が情緒的につながった関係を形成することを指す」

 

のだそうだ。要するに、あくまでも繋がるには「情緒」が必要であって、「情緒」が通わない「お触り」はNGってことね。「踊り子には手を触れないで下さいね」といった状況がこれに値するのかと。

 

はい、話を「ふれあい教育展」に戻します。一方の能力が欠ければ一方が抜きん出るということは健常者にもそこそこある話かと思う。やたら運動神経がよいが勉強が全く出来ないとか、その逆の例もまた然り。

 

障がいを持った子ども達にも同じことが言えるわけで、例えばコミュ力が欠けていても集中力が人一倍優れているとか手先がやたら器用であったりすることはままある。ただ我が家の長女に関してはそのどれも当てはまるものはないものの作品だけはいちおう寄せている。昨日は自らの作品の見学会が催されるということだったので、会えるかも知れないと期待して行ったのだが、すれ違いとなってしまったのか残念なことに会うことは出来なかった。

 

珠玉の作品群を前に予定よりも多くの時間を費やしてしまった。それだけ見惚れる作品が多かったということだ。毎年のことだがそこには驚きがある。

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頭を使い過ぎたか脳みそ内の糖分が急速に欠乏していくのがシュルシュルと音になって聞こえて来た。「こりゃいかん」と帰りに柳ケ瀬のアーケード内にある「だんごろう」に寄りジャパニーズスイーツ「ぜんざい」をぶち込んできた。

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娘の名前が「あん子」「あづ紀」だけに甘味にはうるさい自分だが、期待以上の味わいには毛穴から糖分が吹き出るくらいに満足させてもらった。PayPayが使えるというところが尚いい。

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