基礎を凌駕する応用@コメダ珈琲店の場合
その昔、わずかな間ではあったが音楽で飯を食っていた時代があった。テレビに出演する様な華やかな世界を経験したことは皆無だったが、まぁ、独身ならば食っていくのに困ることはない程度の収入は得られていたかと思う。遊びに費やすのには多少のセーブが必要ではあったが…。
楽器の基礎をとことん植えつけられたのは大学に入ってからだった。高校までは誰かに教わるといった経験がまったくなく全て自己流。いわゆる「耳コピ」というもので、当時はカセットテープレコーダーを進めては戻し、戻しては進めとマメに一流ミュージシャンの演奏をコピーしようとするものの、如何せん技術の無さはカバーも出来ず、真似事に近い誤魔化しに終始していた。
それでも高校の時はバンドのコンテスト等でそこそこの成績を残す事は出来たのだが、大学でジャズ研に入部するとかつての実績は全否定された。翌日からは、目の前のたった一つの太鼓を睨みつけながら、ただひたすらとメトロノームに合わせトントントントンとまさしく打ち据えるが如く何時間も叩かされた。あ、言い忘れたけど楽器はドラムね。
指の皮は破けスティックには血が滲む。ピッピピッピと飛び散る血飛沫はドラムのヘッド(皮)を赤く染める。たまたまその場に居合わせたならば、さながら阿鼻叫喚の地獄絵を彷彿とさせるものだったかと思う。因みにウッドベースのプレイヤーも同じくベースを弾く指から滲む血が、弦に弾かれ血飛沫となり楽譜を真っ赤に彩っていた。香嵐渓の紅葉を観るよりきっと刺激的な様相であっただろう。
ただ、その時に「基礎」というものがどれだけ大事であるかということをとことん身に付けさせられた。齢45で始めた格闘技も、当初は来る日も来る日もいわゆるボクシングでいうところの「ジャブ」しかさせてもらえなかったのは、この基礎を重視してのことだと100%受け入れることが出来たのも、過去のミュージシャンに至るまでの経験が物語っていると自分のことながら確信している。
『シロノワール』といえばコメダ珈琲店の看板メニューでもある。ただいくら看板メニューであろうとも、コメダには回を重ねて3度ほど、それもコーヒーしか頼んだことがない自分にとって本物の『シロノワール』などその姿を直に見たこともなければましてや食べたこともない。にも関わらずついつい手が出てしまった。
まぁ、手が早いのは相手が人間ばかりとは限らないっちゅーこっちゃね。本物を知らずともこれはこれで十分に美味しかった。機会があればいつか本物を試してみようと思う。
結局、無駄に長い巻頭文は何が言いたかったのだろうか?