氷の上のさかな

氷の上にディスプレイされたさかなの様にセカンドライフをキラキラとさせる為に今を頑張ろうといったシュールなお話。

九里四里うまい十三里(栗よりうまい十三里)とは全く関係がない、「一寸八里」

「一寸八里」という言葉を聞いたことがあるだろうか?

 

恐らく諺にはない言葉だと思う。自分がまだ幼き頃に父親の実家へ遊びに行った際、104歳で大往生した祖母が自分に向かい「山で迷ったら動かぬこと」と教える為に「一寸八里」という言葉を使った。

 

何せ、父親の実家は周りが山ばかりである。過去には山で行方不明になった者が麓で息絶えた姿で発見されたという実話も織り交ぜながらおどろおどろしく話してくれた。

 

要はこうだ。

 

山頂で下りる方向を1寸間違えただけで、麓では8里の開きが出るという例えだ。人生に準えて例に出されることもある様だが、それはあくまでも取って付けただけの話だろう。それを言いだしたら人生のスタートライン、つまり親から選ばなければならなくなる。

 

今の様に確固たる登山道がない時代は常に心がけておかねばならなかったのであろう。

 

だから何だ、という話なのだが、実はつい先日、この「一寸八里」の洗礼を自らが受けてしまった。登山道のスタート地点には神社や寺が置かれていることが多い。これは「登拝」という形で、古代から信仰登山が行われていたことに所以する。登山道の途中でも神が祀られている祠をよく目にする。

 

というわけで、山の麓に神社があれば、きっとこの山も登れるに違いない、と勝手に勘違いをしてしまったバカ野郎が危うく遭難しそうになったわけだ。

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山の麓の神社 かなり古くさい

 

自分で言うのもなんだが極端な方向音痴だ。建物の中に入ると東西南北が全くわからない。静岡県焼津に仕入れに行った際にも、帰りは愛知県一宮市インターチェンジを下り、その後は岐阜市へ向かい北上せねばならなかったのに、真逆の名古屋市にまで南下してしまったことがある。普通は風景等で気がついても良さそうなのにとんだ大ボケを発揮してしまった。

 

自宅近所の山である。なんとなく登山道っぽい道をたどりながら山頂にまで到着したものの、なんとなく登山の為の山ではないことに気がついた。

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景色がダサい。太陽光パネルしか見えん。


となれば即座に下山を決め込んだのだが、登ってきたルートが全くわからない。足跡さえも辿ることが出来ず、仕方がなく当てずっぽうで下りることを余儀なくされた。

 

が、下りるも下りるもスタートを切った神社が全く見つからない。そうなるとかなり焦るわけだ。ふと、建物の形が目に入った。小さな祠がある。

 

おぉ~っ!助かった!

 

と思ったのも束の間、「なんだ、この祠は?」

古く朽ちた祠だ。とても手入れがされている様には思えない。

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謎の祠


祠から更に下に向けてロープが垂らしてある。

道ではない。崖だ。

 

マジで?( ̄▽ ̄;)

 

取り敢えず下りてみようかとロープを伝い崖を降りていった先は…。

そこは塀に閉ざされた民家の裏庭だった。見覚えがある。いつも寝過ごしたどり着いた終点のバス停近くに、これでもか!と異形を放つ大豪邸が存在する。どんな悪いことをしたらこんな家にすめるんだろう、などとかねがね思っていたのだが、まさかその屋敷の塀の中に潜入してしまうことになるとは。

 

こちらスネーク。潜入に成功した。

 

などと悠長なことは言っていられない。取り敢えず、声を出してみた。

「すみませーん。誰かいませんか?」

 

反応がない。

 

「すみませーん!誰かいませんか?!」

 

またしても反応がない。

 

「すみませーん!!誰かいませんかってんでぃ、べらぼうめっ!!」

 

シーン…。

 

下手にうろつくと迷子になりそうなお屋敷だ。仕方ない。また登るか。ロープをたぐりながら崖をよじ登ると、再び山頂を目指し途中迂回をしながら登っては下り、登っては下りを繰り返すと、やっとお目当てのスタート地点にあった神社が見えてきた。

 

今回のルートはこちら。てか、ルートはテキトーに書いたけど。

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幸い、低い山だったからこの程度のことで済んで良かったのだが、とはいえけして侮ってはいけないと相も変わらず反省に反省を重ねるのであった。

 

マジ、ビビったって。

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